下図は井伊直虎・次郎法師と井伊直政の子供時代の姿です。直政
は徳川四天王の一人として活躍しますが三方原合戦当時はまだ
十二歳で合戦には参加していません。その直政を育て、徳川家康
の家臣として出世させたのが直虎・次郎法師であります。次郎法師
は直政の伯母にあたり、今川のために父親を殺された直政を育て、
その後見として一時井伊家の当主となり、家康も一目置くほどの女
性でした。次郎法師の父親は井伊直盛で、直盛は桶狭間で今川義
元と共に戦死をしました。その後男子不在になった井伊家の当主と
なり困難な時代の舵取りを致しました。

平成29年度NHK大河ドラマは、おんな城主・井伊直虎と決定
しました。直虎の地元・遠州浜松では直虎とは呼ばず、次郎
法師と呼ばれています。当工房主は20余年に渉り、歴史の
霧の中に埋もれていた次郎法師様を発掘、顕彰して来ました。
「井の国物語」として一書にまとめてあります。今度のドラ
マ期待しています。

次郎法師・井伊直虎 その2

次郎法師・井伊直虎 その4

次郎法師・井伊直虎 その5

次郎法師・直虎と虎松 その1

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たおやかなだけではなく直虎
も時には槍をとって戦わざるを
得ないこともあった。

尼さん頭巾と具足が
時には似合うこともあった。
戦国という厳しい時代を耐
えて生き抜くために、次郎
法師・直虎も数珠と槍を両
手に持たざるを得なかった。
直虎というお名乗りは次郎
法師が寅年生まれであった
からとか、周辺の武将達に
見くびられないようにとかに
由来すると言われている。
奇しくも同じ頃に徳川家康も
生まれている。

徳川家康は次郎法師・直虎を
「女地頭」とか呼んだそう
である。地頭という言葉
から女丈夫のイメージを持って
しまうが、実際はたおやかな
美しい、心優しい女性である。

次郎法師・直虎の残存資料は
それほど多くない。資料の断片
をつなぎ合わせ、その隙間を埋
め合わせるために、想像力が要
求される。そのため奇想天外な
ストーリーも生み出されるようだ。

井伊直虎はおなごにおざりまする

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           おんな城主直虎とは

 NHKから放映される予定の大河ドラマのヒロインが「直虎」と決定
した。井伊直虎の地元浜松にとっては大きな話題となっているが、一方
では、直虎って誰?という声も聞かれる。

 地元でも直虎というお名乗りは滅多に使わない。一般には次郎法師と
呼ばれている。この呼び名でも一見男性か女性か判然としない。当時の
井伊家では、当主となるべき人物には次郎という通称を与えていること
から、永禄年間に当主を嗣いだ女性にも次郎という男性名が与えられた
のである。次郎法師の出家名は祐圓尼であるから、すなわち、直虎=次
郎法師=祐圓尼である。
直虎という武張ったお名乗りも、女性であるこ
とを周辺武将達からあなどられないようにという、師匠である南渓和尚
の配慮であったと考えられるが、別の考え方として、次郎法師が寅年生
まれであったからということもある。寅年生まれといえば同じ年に徳川
家康も生まれている。

 次郎法師が井伊家当主として活動したのは永禄七年頃から天正三年ま
でである。永禄五年に許婚者であった直親が掛川で戦死し、隠居してい
た直平が当主に復活したが翌年毒殺されて、井伊家には当主不在となっ
たので、女性当主が誕生したのである。虎松、後の直政がまだ乳飲み子
であったので、虎松が成人するまでという約束であった。直虎が当主と
なった期間は約十年間である。
この十年間は遠州地方は大変革の時
代であった。永禄十一年には徳川家康の遠州侵攻があり、堀川城の合戦
があり、三方原の合戦があり、長篠の合戦があった時代である。遠州の
支配者も今川家から徳川家へ完全移譲した頃である。

次郎法師・直虎は本来は今川方の人である。母親が今川方の出である。
その為、家康の遠州侵攻には、当初は当然ながら反対であったらしい。
小野但馬という家老が直虎の意を受けて、家康反対の旗を揚げたが、時
代の流れに押されて消されてしまった。この頃の直虎の選択肢は複雑で
あったと考えられる。それは直虎ばかりでなく、家康自身も迷っていた
と思われる。 遠州へ侵攻したのは武田の侵攻を押さえるための信長の
命令によったものであり、それに従わざるを得なかった苦労もあった。
 虎松、後の直政が十五歳になったのが天正三年である。当時の男子は
十五歳が成人式であったので、直虎はこの年を期して虎松を徳川家へ出
仕させた。この当時は長篠合戦勝利の年であり、徳川家の地位も安定し
ていた頃である。徳川家の安定を見届けての直虎の配慮でもあったろう。
虎松の徳川家出仕をもって、井伊家当主としての次郎法師・直虎の役目
は終わったのである。

 次郎法師・直虎が亡くなったのは天正十年八月二十六日である。奇し
くも同じ年の六月に、直虎の父親である直盛を戦死させた織田信長が本
能寺で倒れた年に当たる。直虎はこの年、四十歳位であったと考えられる。
ご遺体は多分、神宮寺の自耕庵、現・妙雲寺へ葬られたと思われる.
龍潭寺に残る南渓過去帳には八月二十六日入牌となっていることから、
位牌が龍潭寺へ納められたと考えられる。法名は

  妙雲院殿月泉祐圓禅定尼 
 である。自耕庵は直虎の院号をもって後に妙雲寺と改められた。
 龍潭寺にある直虎の墓は江戸期に建立された供養塔である。この東向
きの墓域には十三基の供養塔がコの字形に並んでいる。中央に井伊家初
代共保公と二十二代直盛公の二基の供養塔があり、その北側には歴代当
主の供養塔が六基あり、それぞれ一基には数人の当主の法名が刻字され
てある。南側には直親、直政など五基が並んでいる。それぞれ一基には
一人の法名が記されている。それぞれの供養塔は刻字が読めて、誰が祀
られているのか判読出来る。ところが日陰になる一基だけが石の腐食が
激しく、剥落もあって刻字が読めない。この供養塔こそが次郎法師・直
虎のものである。この供養塔の腐食ぶりを見ると、戦国という過酷な時
代を、女手でお家を必死に支えた次郎法師様のご苦労が偲ばれるようで、
涙を禁じ得ない。

 NHK大河ドラマがどのように展開されるのか、楽しみとともに不安
もある。ドラマの内容などは現段階では計り知ることは出来ないが、地
元のもつ次郎法師・直虎のイメージを壊すことなく、地元の声も取り入
れて、ドラマを素晴らしいものに仕上げて戴きたいと願っている。

次郎法師・直虎 その6

次郎法師・直虎 その3

次郎法師直虎と虎松 その8

次郎法師直虎と虎松・桜狩り その9

刀持つ直虎  その10

槍持つ直虎  その11

新野左馬助親矩(直虎後見人)
おんな城主・井伊直虎の伯父
にあたる武将。今川一門である
が、妹が井伊家へ輿入れするに
あたり付け家老として派遣された。
その妹が直虎の母親である。
今川一門ではあるが、井伊家家老
として、姪の直虎を育て、よく補佐
をした。永禄7年、飯尾豊前守との
一戦で討ち死にした。墓は龍潭寺
と出身地である御前崎市新野に
祀られている。

 中野越後守直由 井伊家家老

井伊家家老であり22代当主井伊
直盛をよく補佐した。もとは井伊一
門である。新野左馬助と共に飯尾
合戦に出陣し戦死した。この両武将
の戦死がおんな城主直虎登場の背
景となった。

小野但馬守道好  井伊家家老

小野但馬逆臣説は誤りである。但馬
は井伊家、特に直虎を守ろうとして
命を賭けて戦った忠臣である。徳川
家康を敵に回したために後世逆臣の
汚名を背負ったが、数少ない資料を
付き合わせれば、忠義な家老であっ
たことがあきらかとなる。
大河ドラマでは但馬と直虎と直親が
幼なじみであり、三角関係となってい
ると設定されている。勿論史実では
ないがドラマを面白く展開させる為の
設定と思えば許されるだろう。

直虎と虎松  その7

          井伊直虎はおなごにおざりまする
 最近、井伊直虎は男であるというような俗説が流布されてマスコミを賑わせ、且つ素人衆を迷わせている。直虎様と御縁を戴いて30年になる筆者は、これまでの直虎様の資料収集や史跡探索の課程で、ただの一度も「直虎は男である」などという疑問を抱いたことはない。新発見の資料というものがどのような経緯で世に現れたのか測り知ることは出来ないが、おそらく江戸後期以後の資料であろうと思われる。それも直虎は男であるという前提のもとに読み下せば、そうかも知れないという結論を引き出せるかもしれない。
 直虎に関わる第1級資料は龍潭寺や蜂前神社に残る古文書が知られているが、「南渓過去帳」もその一つに数えられる。また少し時代は下るが「井伊家伝記」もその中に入れても良いと思う。ただし、「井伊家伝記」にはいろいろな問題もあると指摘する人もあるが、貴重な記録であることには変わりない。「南渓過去帳」には直虎に関して、月泉祐圓禅定尼、旦那次郎法師 入牌とあり、これは直虎は自分が住持した自耕庵に埋葬され、その後位牌が龍潭寺へ納められたことを意味する。余談ながら小野但馬の墓は今も確定されていないが、「南渓過去帳」には入牌となっていることから、直虎と同じように位牌だけ後に龍潭寺へ納められたと考えられる。但馬処刑後、探し出されて処刑された但馬の二人の子供は入牌とはなっていないことから、もしかして龍潭寺へ葬られたものかと考えられる。
 直虎が住持した自耕庵、現妙雲寺には直虎の墓は発見できない。ここの墓所は今は丁寧に整備されているが、30年前はその墓地は荒れ果てていて、とても直虎の墓と確定できる墓石は発見できなかった。最近発見されたという直虎の墓とされるものは別人のものであろう。
 「井伊家伝記」を表した祖山和尚という方は、あまり小さな事に拘泥しない大らかな処があったと想像される。そのため「井伊家伝記」の表現にもかなり大まかなところもあり、また多少史実から外れた処もあるように思われ、そこを後世の研究者に指摘されたりすることもあるようだ。それでありながら、今出回っている多くの直虎本が、その「井伊家伝記」を底本としていることも見逃すことは出来ない。
 祖山和尚の大らかさは次の一点にも現れている。和尚が井伊家歴代の位牌を整備したとき、直虎の法名「月泉祐圓禅定尼」 を「月船祐圓禅定尼」と書き間違えていることである。月泉を音読みで月船としてしまったことなどは些事に拘泥しない大らかさからであろう。繰り返して言へば、直虎は絶対に女性である。第1級資料である南渓過去帳には禅定尼となっているではありませんか。