歴史のページへようこそ。ここでは歴史をいろどった人物達が登場いたします。
歴史上に名を残した人物は綺羅星のように今も輝きを失っていません。一時、
夢の世界に遊んで下さい。

有名な三方原合戦図です。左が武田軍、右が徳川軍です。元亀三年十二月
二十二日、徳川家康は武田信玄を遠州三方原に迎え撃ち、一大決戦を仕掛
けます。この合戦で家康は大敗し命からがら浜松城へ逃げ帰ります。
 この敗戦がその後の家康の教訓となり、人の一生は重き荷を背負いて遠き
道を行くが如しという座右銘となって、やがて天下を握る礎となります。
 上図は武田軍が三方原の追分の辻で待ち構えているという知らせを、服部
半蔵(家康と同じ年齢)が早馬を駆って家康へ注進する場面であります。この
時家康三十一歳、信玄は五十三歳です。この合戦で大勝した信玄ですが、こ
の当日の寒さには勝てず、遂に風邪を引き込んで肺炎を併発し、その予後も
不順となり国へ帰る途中信州で不帰の人となります。負けた家康はやがて
天下を取り、勝った信玄は病に倒れるとは、人の運命の計り知れなさを思い
ます。

三方原合戦武田軍図

三方原合戦徳川軍図

三方原の合戦には大敗した家康も、三年後の長篠合戦には信長の援軍で
武田軍を破ることができました。順調に戦国大名の道を進んでいたかに見
えた家康ですが、予期せぬ悲劇が襲います。天正七年、同盟軍であった筈
の信長は家康の正室築山殿と嫡男三郎信康の首を討てと家康に強要します。
これは信長が家康の忠誠心を試そうとしたのではないかとか、信康が長篠合
戦で見せた勇猛果敢振りが、信長の脅威になってきたのではないのかとか、
後世の人は色々と取り沙汰致しております。真相は謎のままです。結局家康は
信長への忠誠の道を選びます。天正七年八月二十九日築山殿を、九月十五日
信康を、家康は血の涙を流しながら討ち果たします。歴史の皮肉はここでも現
れます、権力振り回す信長は三年後、本能寺に倒れます。

築山御前

三郎信康

平野お紺

では三方原合戦前後に儚く咲いた名花一輪をご紹介しましょう。三方原合戦に
大勝した武田軍はその後も遠州地方を浸食しました。その頃、遠州豊田郡加茂
村の地侍平野重定は徳川軍の一翼として武田軍の侵攻に備えていましたが、
ある時激しい武田の攻撃を受けました。平野重定の妹お紺も腹巻を着けて勇ま
しく戦いました。だが武田軍の猛攻を防ぎきれず遂に捕らえられて引き立てられ
ようとしました。その時お紺は兄重定に向かって大声で叫びました。「私ともども、
武田の兵をその槍にて刺し通したまえ」。重定は泣く泣く槍を取って妹ともども武
田兵を刺し殺しました。お紺が戦死した場所は今も地元の人々によって供養され
ています。

熊野御前

時代を少しさかのぼりましょう。平家全盛
の頃、遠江池田宿の長者の娘、熊野御前
は都に召されて平宗盛の愛妾となりました。
春の一日、宗盛は熊野ともども花見へ出か
けますが、熊野は国の母親が病に伏せてい
るため楽しめません。熊野は帰心を歌に託
して宗盛に訴えます。
  如何にせん 都の春も惜しけれど
  慣れし東の 花や散るらん
宗盛は熊野の心情を察して帰国を許します。
今、池田宿には熊野とその母親の供養塔が
残されています。
余談です。先年この池田宿に能楽堂が建立
されそのこけら落としに観世宗家が招かれて
「熊野」を演能されました。その曲の途中、そ
れまで好天気であったものが、「にわかの村
雨」のあたりでほんとうの雨が降って来ました。
人々その奇瑞に驚きおそれました。

日高川

日高川は安珍清姫伝説です。紀伊の国まなご
の庄司の娘清姫は修行僧安珍に心寄せます。
安珍は修行中のこととして清姫を振り切って逃
げ出します。後追い掛けた清姫は日高川にさえ
ぎられます。意を決した清姫はざんぶと川へ飛
び込んで、蛇に変身して川を乗り切ります。
道成寺で追い付いた清姫は鐘の中に隠れた
安珍を鐘ともども焼き尽くします。
歌舞伎では京鹿子娘道成寺となります。

阿蘭陀おいね

こちらは阿蘭陀おいねさんです。おいねは
シーボルトの娘で日本の女医のさきがけ
です。おいねが手に持つは、母のイメージ
の紫陽花です。おいねの母の名はおたき
といい、シーボルトはその名を紫陽花の
学名としたほどです。

お七

ご存じ八百屋お七です。お七は焦がれる吉三郎に会
いたさに、自宅に放火したとして処刑されます。

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       坂本龍馬妻おりょう
おりょうは幕末に一際異彩を放った女性である
伏見寺田屋で龍馬が襲われた時、危急を知ら
せるために、湯上がりのままで二階へ駈け上
がったことはよく知られている。日本で初めて
新婚旅行へ出かけた女性としても知られている。

          出雲の阿国
歌舞伎踊りの元祖と伝えられている。出雲大社
の巫女であったともいわれる。慶長年間、都で
歌舞伎踊りを演じた。御所や伏見城、江戸城でも
演じた。四月15日が阿国忌として祀られている。

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