このページでは徳川家臣団をご紹介しましょう。戦国最強を誇る数々の梟勇大名を相手に
最後に天下取りの偉業を成し遂げたのは、その家臣団の結束力であったかも知れません
。家臣団というものは、どこの大名家の家臣団であっても、必ずしも一枚岩という訳にはい
かないようです。人十人集まれば十の意見が交わされても不思議ではない中にあって、と
にもかくにも偉業を成し遂げたことはその統率者の力量があったからでしょう。徳川家臣団
にも、様々なキャラクターがあって、振り返ってみれば、みんな個性的で、たくましくて、我が
強くて、きかん坊で、統率者はきっと苦労をしたことでしょうが、家康公から見れば、みんな
うい奴であり、頼もしい奴であったに違いありません。そんな男達の面だましいを見てやっ
て下さい。

    本多平八郎忠勝
四天王の一人。一言坂の合戦
でしんがりを果たし、家康の危
機を救い、武田信玄から、家康
に過ぎたる者と激賞された。と
んぼ切りの名槍を自在に操って
合戦毎に戦功を挙げ、信長、秀
吉からもその武勇を褒められた

      井伊万千代直政
四天王の中では最も年若であった
が、家臣団のなかでは最高の出世
を成し遂げた。三方原合戦の時に
は十二歳、長篠合戦の時には十五
歳で合戦には参加していなかった
が、その後の出世は著しい。秀吉
の大政所の接待役で名を挙げ、秀
吉から侍従の位を推挙された。関
ヶ原合戦では一番乗りの名誉に輝
いた。

     酒井左衛門尉忠次
創業期の四天王の筆頭。三方原合戦
で敗走する味方を立て直すため、浜松
城で太鼓を打って士気を鼓舞し、酒井の
太鼓として知られる。長篠合戦では信長
の前で海老踊りを舞って緊張を和らげ、
また鳶の巣山へ夜襲をかけて戦功を挙
げた。

     徳川家康公
人の一生は重荷を負うて遠き道
を行くがごとし。急ぐべからず。不
自由を常と思えば不足無し。堪
忍は無事長生きのもと、怒りは敵
と思え。勝つこと知って負けること
知らざれば、害その身に至る。お
のれを責めて人を責めるな。及ば
ざるは過ぎたるに勝れり。

     榊原小平太康政
四天王の一人。姉川、三方原、長篠、
小牧長久手などの合戦で戦功を挙げ
た。小牧合戦では秀吉は康政の首に
十万石の懸賞を掛けたが果たせず、
かえって康政の名を高からしめた。
関ヶ原合戦では遅参した秀忠を弁護
して安堵させた。

    高力与左衛門清長
岡崎三奉行の一人、仏高力として
民政に腕を発揮した初期の功臣で
ある.。孫は浜松城主を勤めた。

    本多作左衛門重次
岡崎三奉行。性格剛直で鬼作左として知られ
る。一筆啓上火の用心、お千泣かすな馬肥や
せの日本一簡潔な手紙で有名。浜松城の築
城に手腕を示し、作左曲輪の名を今に残して
いる。

     天野三郎兵衛康景
岡崎三奉行の一人。どちへんなしは
天野三兵と噂されたが、どちへんなし
の意味はいろいろな解釈がされており
、ここでは民意を汲み取ることに公正中立
であったと解釈しよう。

     平岩七之助親吉
家康嫡男三郎信康の後見役であったが
信康自刃後は尾張義直の後見となった。
人を育て、薫育することに長けていたのを
家康が認めたものと思われる。嗣子が無
かったことから、その十万石の禄の返上も
爽やかであった。

        石川与七郎数正
初期の功臣の一人。戦略軍略に長けて合戦では重
要なブレーン。晩年の出来事は歴史上の謎とされ
ているが、ここでは好意的に解釈して、家康の意を
受けて徳川家を離れたとしよう。子供達はそのまま
徳川家に残っていたのであるから。

      大久保七郎右衛門忠世
大久保兄弟の惣領として武功派の名を残す
信康自刃の時は二俣城主であり、信康を逃
がすために画策するが、従容として家康の
意に従う信康を見て諦める。
後年小田原城主の時、信康命日と同じ日に
世を去る。そのため、殉じたとも言われている。

    大久保治右衛門忠佐
忠世の弟。長篠合戦では信長の陣前で大活躍し、
信長から髭はんかいと褒められた。
武功派で、吏僚派とはそりが合わなかったようであ
る。

  大久保彦左衛門忠教
ご存じ、人気者彦左衛門である。兄忠世
とは親子ほどの歳の差があり、家康、
秀忠、家光の三代にわたって仕えた。
禄高は二千石と少なかったが、旗本達
の不満を代表するかのように三河物語
を残して名を為した。

徳川家臣の二人の半蔵、左が渡辺半蔵守綱、右は服部半蔵正成である。渡辺半蔵は若い
頃一向一揆に荷担して家康に弓を引いたが、後帰参して活躍し特に三方原合戦では槍を振
るって大活躍し、槍半蔵と呼ばれた。服部半蔵はご存じ伊賀忍者集団を取りまとめて、影の
軍団として怖れられ、鬼半蔵の異名を取った。

      鳥居彦右衛門元忠
家康と三歳違いの幼友達で、家康の
人質時代にも随行した。武功派で、
数々の合戦で活躍するが、特に関ヶ原
合戦の前哨戦である伏見城の攻防では
西軍相手に活躍し、戦死した。地味では
あるが、家康の天下取りの礎となった。

     近藤登之助秀用
井伊谷三人集の一人近藤康用の嫡男。
ご存じ旗本奴の人気者である。井伊直政が
転封した後職を引き継ぎ、遠州本坂道の
代官職を勤めた。

      成瀬藤蔵正義
講談湯水の行水で知られ、隣家の鳥居
四郎左衛門忠広と喧嘩して、仲直りし、
三方原合戦では忠広と先陣争いをして
戦死した。その戦死の場所は成瀬谷として
今も地元の人によって供養されている。

松平勘四郎信一
松平一族ながら家康の初戦から
従軍し、家康の片腕となって戦功
を挙げた。

    鳥居強右衛門勝商
わすれてはならない武者として強右衛門
を挙げる。長篠合戦での剛勇振りはご
存じの通り。

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武田信玄

徳川家康のライバルであり、敬愛する大先輩であった
のは武田信玄である。家康は信玄亡き後、その軍法を
取り入れ、赤備え軍団を継承し、戦国という過酷な時代
を乗り切った。

徳川家臣団